不幸について考えてみる8
不幸の本質は、考えることを放棄したこと。
「人は、どこから来てどこへ行くのか?」
このテーマについても、私たちはいつしか考えることを止めてしまっているのではないでしょうか?
このテーマについて徒然草を見て考えてみたいと思います。
徒然草第243段
八つになりしとき
(吉田兼好が)八つになった年に、父に質問した。
『仏とは、どういうものでございますか?』と言った。
父が言った。『仏には、人が成るものだ』と。
また問いかけた。『人はどうやって仏に成るのですか?』と。
父はまた『仏の教によって成るのである』と答えた。
また問うた。『その道を教えてくれる仏は、だれが教えたのですか?』と。
また父は答える。『その仏もまた、その前の仏の教えによって仏に成られたのだ』と。
また問う。『その教えを始められた第一の仏は、どのような仏にございますか?』と聞くと、父は『空より降ってきたか。土から湧いてきたか』と答えて笑った。
『息子から問い詰められて、答えられなくなってしまった』と、父はみんなに語って面白がっていた。
人はどこから来てどこへ行くのか?
これは人間であるならば誰でも、必ず知らなければならないことの一つです。
もし、、、
街中を一人で歩いてる子供に「君はどこから来たのか?」「そしてどこへ行くのか?」と尋ねた時、その子が「知らない」と答えたら、あなたはどう思うでしょうか?
「この子は迷子になっているに違いない」
そう思うでしょう。
徘徊老人にしても同じことです。
その老人が徘徊しているのは「自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか」
知らないからです。
つまり、人間が「自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか分からない」ということは異常事態だということです。
吉田兼好は、八歳の時に人間の行く先のようなことに疑問を持ったのでしょう。
それで、父に質問します。
父は、人は死んだら仏になると言います。
兼好は、また問います。
一番最初の仏はどこから来たのか?、、、と。
これには、父も言葉に詰まってしまいます。
さすがにそこまでは、分からないからです。
しかし、そのような質問をする我が息子に対し父は嬉しかったに違いありません。
「この子が、いよいよ人のルーツや、行くべき道について探し始めたぞ」と思うわけです。
これは、我が子が健全に成長している証拠です。
吉田兼好の父もやはり、人間どこから来てどこへ行くのかについては、考え尽くした人であったのでしょう。
人間は、いくら頭のいい人でも分かることに限りがあります。
全知全能の神ではないからです。
人は、母の胎内から生まれてきたことは分かっても、死んだ先どこに行くかなど
本当は誰にも分からないのです。
しかし、自分がどこに行こうとしているのかについて、
少なくとも「自分の覚悟としての行き先」は分かっているべきです。
そうしないと、徘徊するだけの異常事態の人生を
生きることになりかねないからです。