歴史と人間の選択
「歴史と人間の選択、、、について話します。」
もしあなたが、誰かに飼われている猫であるとしたら、、、、
あなたは、自由を求めてその家をでることも可能でしょう。
しかし、その瞬間、、、飼い主に媚びを売らずに済む代わりに、自分でネズミを捕らなければ生きてゆけない運命が待ち受けています。
果して、、、、
あなたは、険しい自由を望むのか?それとも束縛の中にある安楽を望むのか?
これは、、、人類歴史を左右してきた人間の究極の選択、、、の例えです。
つまり、、、
その究極の選択とは、自由(自立)か?それとも金(依存)か?です。
ここで言う自由とは、神の造った大自然の摂理と完全に調和した境地というようなものです。
人間の金や権力の支配、束縛など、、、大自然の法則から外れた人為的な影響を精神的にも肉体的にも一切受けることがない立場のことです。
恐らく、それは人類が未だかつて到達したことがない世界です。
特に文明と名の付く社会構造の中で私たちほとんどの人間は、権力者の支配や束縛という囲いの外にある自由など経験したことがないのです。
しかし、、、
人間の習性とはおかしなもので、歪な関係性の中にも長いこと住み続けるとそれがむしろ居心地の良いものに変わってしまうものなのでしょう。
それは、主人に媚びてエサを貰うことに慣れてしまった飼い猫が、自分からネズミを捕りにいかなくなるのと似ています。
しかし、、、
それに異を唱える者が、歴史の節々に登場します。
「人間は卑屈に生きてはいけない!人間は、元々神から与えられた性質はそんなちっぽけな囲いの中で生きるようできていない!」と言うわけです。
モーセの時代
エジプトで奴隷生活を余儀なくされているイスラエル民族を、神が与えた自由な新天地カナンに導こうとしたのがモーセでありました。
この時モーセを通してイスラエル民族に突きつけられた問いは、、、
カナンにある自由(自立)か?それともエジプトの生活(奴隷)か?でした。
イエスキリストの時代
腐敗した宗教組織のなかで、神の名を語り私腹を肥やす律法学者やパリサイ人があり、その権力支配のもとにイスラエル民族がありました。
イエスキリストは、神のみが主であると説き、イスラエル民族を理不尽な支配構造の中から解放しようとしました。
この時イスラエル民族に突きつけられた問いは、
神(自由)か?それとも富(権力支配の下)か?です。
このような選択は、私たち個人においても、、、、
常に起こり得ることです。
例えば、、、
会社の不正を見たとき、、、
真実(心の自由)か自己保身(金)か、、、を突き付けられます。
子供の社会でもそうです。
いじめを目撃した時、、、
真実(とめる)か自己保身(見て見ぬふり)か、、、の選択になります。
恐らく、そのような人間の瞬時の選択が歴史の分岐点となり、歴史を動かしてきたのでしょう。