歴史の真髄は自由か金か、、、?

   歴史の真髄は自由か金か、、、?

 

旧約聖書出エジプト記に、、、

モーセがエジプトで奴隷にされていたイスラエル民族を救い出す話あります。

 

モーセは、イスラエル民族を率いて神との約束の地であるカナンへ向けてエジプトからの脱出を計ります。

しかし、エジプトの王はそれを阻止しようと軍を送ります。

モーセは、追随してくるエジプト軍を紅海を割って振り切り、やっとの思いで脱出する、、、という話です。

 

しかし、、、

その後のカナンに至る道のりは平たんではありませんでした。

砂漠や荒野を何年もかけて越えて行く険しい道のりだったのです。

 

すると、どうでしょうか?

イスラエル民族は、口々にモーセに向かって不平不満を言うようになったのです。

「エジプトでは、奴隷であったけれどスイカでもきゅうりでも何でも食べられた」と、、、。

 

彼ら(イスラエル民族)は、自由というものに内在する厳しさに直面した時「自由を勝ち取る険しい道よりも、権力者に管理された安易な奴隷のほうがいい」と思ったのです。

 

この物語は、、、

過去にあったイスラエル民族の話では終わりません。

私たち一人一人に今も当てはまる現在進行形の話なのです。

 

カナンとは、地図にある地名を言っているだけではありません。

の国を象徴しています。

以外に誰からの支配も受けない、自由な世界の象徴です。

 

それに対してエジプトは、権力者)が人間を支配する世界の象徴です。

 

今私たちが住んでいるのはどこでしょうか?

カナンでしょうか?エジプトでしょうか?

 

言うまでもありません、エジプトです。

その証拠に、、、

私たちは金がなければ、生きられない仕組み(富による支配構造)の中にいます。

だからもし、あなたが、この構造の中から脱出しようとするならば、イスラエル民族が直面したような荒野の生活が待ち受けているということです。

 

モーセは、、、

カナンの地に入ることが出来ずに命が尽きました。

モーセに自立心と覚悟がなかったからではありません。

モーセに付き従った者たちに自立心と覚悟が足りなかったのです。

 

2000年前イエスキリストの時もそうでした。

エスキリストは、イスラエル民族を権力者の支配構造から解き放ち、誰からの支配も受けない自由な世界(神の国)へ連れ出そうとしました。

 

もし民衆が、イエスを支持して立ち上がっていたならば、、、イスラエル民族を支配する権力者(拝金主義者)の不当な支配構造は崩壊していたはずです。

しかし、、、

民衆は、イエスについて行きませんでした。

彼らは、権力者に媚びて生きる安易な道を選んだのです。

 

民意を失い孤立無援となったイエスキリストは十字架にかけられました。

権力者(拝金主義者)の手によって見せしめにされたのです。

 

その後も、、、

エスキリストの精神を受け継ぐ者は現れました。

しかし、、、

そういう正しい者たちもことごとく吊し上げられてきたのです。

 

いつの時代も、、、

自由を勝ち取るために険しい道を行こうとする者は少数でした。

ほとんどの人間が、権力者(拝金主義者)に媚びて生きる安易な道を選んだのです。

 

権力者(拝金主義者)が悪いと言えばその通りなのでしょう。

しかし、富の支配する世の中を、自ら望んだ民意こそが歴史の真犯人なのです。

 

その証拠に、、、

権力者(拝金主義者)は未だに裁かれたことがありません。

自由よりも富を望む民意(共犯者)に守られているからです。

 

今のアメリカの混乱も、、、

「神(カナン)と富(エジプト)どちらを望むのか?」

というのが問題の本質です。

 

権力者(拝金主義者)たちは当然、真実を叫ぶ者を吊し上げようとすることでしょう。

そして、過去にそうであったように、多くの人間は権力者(拝金主義者)に媚びる安易な道を選ぶに違いありません。

 

しかし、、、

モーセやイエスが示した険しい道を行く者もいるはずです。

 

歴史は、一人の聖人がなければ変わりません。

しかし、一人の聖人だけでも変わりません。

それに同調する正しい民意があってはじめて変わるのです。

 

このことは、歴史が証明しています。

私たちの自立心と覚悟が試されるときです。