不幸のからくりⅫ

学び

 

植物も動物も人間も成長期間を経て成熟するようになっています。

そかし、、、

人間だけは、その期間学びが不可欠です。

 

つまり、、、

人間は、学ばずには成人(自立した人)できないように成っている、、、

と言うことです。

 

福沢諭吉先生は「学問のすすめ」の中でこう言っています。

「実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。」

「されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。」

賢人とは、自分で正しい判断ができる(自立した)人間であり、愚人は、その逆です。

 

では、、、

愚人の何が問題なのでしょうか、、、?

自立心(判断力)がないので、自分の自由や人権、生命、家族、国家などを守れないことです。 

分別のつかない子供たちが、自分たちだけで人権や家族や国を守ることができないのと同じです。

 

だから、、、

人間が、自由や人権、生命、家族、国家を守る大人になるために、先ず学んで知恵(自立心)をつけよ!という理屈です。

 

これは、自然の理に則った健全な考え方です。

 

一方、、、

それに、相反する考え、、、邪念というべきものがあります。

それが、不幸の形、、、支配・被支配の関係を作ります。

その関係を、暗黙のうちに作り上げている仕組みが不幸のからくりです。

不幸のからくりは、自立心を砕くことの一点で理解できます。

何故ならば、、、

その邪念は、(自立心のない)人間から、全てを奪う(支配する)ことが目的のすべてだからです。

 

それで、、、

どの様なからくりを、仕掛けるのでしょうか?

「人間は、与えられて当然だ」、、、という暗示をかけます。

自由や人権、平和や安全は、与えられるべき権利だと教えるのです。

しかし、これは、、、

人に自立するな!と言っているに等しいのです。

 

確かに、自由や人権、平和や安全は、自然権としてから人間に与えられています。

しかし、同時に人間は「先ず学んで自立をし、それを守る責任がある」のです。

 

問題は、後者の部分、、、

人が学ぶこと、自立すること、守ること、私たち一人一人に責任があること、、、

が、意図的に隠されていることです。

 

それで、、、

自由や人権、平和や安全が与えられるもの、、、と錯覚した人間は、どうなるのでしょうか?

必然的に、自分で学ばず、自分で考えず、人に要求するだけの人間になります。

これが、からくりにはまった人の姿です。

オモチャを欲しがって駄々をこねる幼児、、、と大差がないのです。

 

それで、、、

歴史はどうだったのでしょうか?

平等を旗印にした共産主義が、完全なる不平等社会を実現しました。

自由を旗印にした自由主義は、奴隷貿易という完全なる自由剝奪をしました。

実際の歴史は、、、

完全な逆説を成立させてきたのです。

 

つまり、、、 

自立心のない人間(愚人)が、自由や平等を欲しがった結果、、、全てを奪われたという結末なのです。

 

この構図は、、、

今現在私たちが住む社会でも、変わるものはありません。

 

人権を旗印にあげる者の多くは、自分の私服を肥やすために人の人権を侵す者たちです。

平和を旗印にあげる者の多くは、武力革命の信奉者たちです。

悲差別を旗印にあげる者の多くは、完全なる差別主義者たちです。

 

旗印(スローガン)は、目隠しに過ぎません。

本当の目的は、自立心のない人間(愚人)から奪うことです。 

これは、作り話ではなく、歴史に残されている事実なのです。

 

私たちは、ずっとこの不幸のからくりに引っかかってきました。

それは、真実を学ぶことを忘れてしまったからです。

うわべだけを見て、何も考えなくてなってしまったので、、、

巧妙なすり替え、だまし、分断工作、、、に嵌っているのです。