グローバルスタンダード

和の精神と西洋思想

和の精神

和の精神とは、三つのポイントで説明できます。

党派心を自覚する。

主座を守る。

独善を避けるの三つです。

 

党派心を自覚する。

聖徳太子は17条憲法第1条で「人に皆たむら(党派心)あり」と言っています。

和の精神は、人間は誰でも心の中にたむら(党派心)を隠し持っているという自覚が前提になっています。

たむら(党派心)とは利害(私利私欲)を中心として徒党を組み、上に逆らったり秩序を乱したりしようとする心です。

今でも「不良学生がコンビニの前でたむろする」などという表現をしますが、何か良くない動機(怠惰など)で群れたがる思いのことをたむら(党派心)といいます。

日本では古くからこのような党派心を平和を乱す原因と認識していました。

ですから、日本の和の精神とは、言わば人間の中にある党派心を鎮めるための精神なのです。

 

主座を守る

主座を守るとは、自立した精神(心の一本軸)を失うな!ということです。

これは、逆に言えば自分の中にある党派心(二心、邪心、逆心)を去らせよ!ということでもあります。

それで日本人は古くから一途です。

どんな立場の人間でも、どんな仕事でも一つの道を極めるということをしてきました。またそれを美徳としてきたのです。

そのことを、剣豪の宮本武蔵は「士農工商それぞれに、それぞれの道がある」と言っています。

「それぞれの道において極めたその先は、すべて一つの真理に通じる」

これが和の精神の真髄というものなのでしょう。

日本人が宗教に寛容なのも、心に一本の主座を持つ和の精神の現れです。

 

独善を避ける

三つ目は「衆知を集めよ!話し合え!」です。

これは独善対策です。

人間は、たとえ神仏の教えによく学び「心を正し」判断を間違えないように心がけていたとしても「それでも間違える」ものだという話です。

人は良かれと思ってしたことが裏目に出ることは多々あることです。

自分の持つ判断の軸が常に正しいとは限らないということです。 

ましてや、人の上に立つ者は、権力と私利私欲がくっつきやすい。

真っ直ぐな軸も傾くことがあるのです。

それで17条憲法の最終章で「重要なことは独断せずに、衆知を集めてよく話し合え」と言っているのです。

これは、西洋思想でいうところに「民主主義」です。

日本では、権力者の独善を防止するための「法の支配」と「民主主義」の概念は古くから定着していたと見られます。

 

どこの国にも、権力闘争や権力の横暴というものがあります。

しかし、少なくとも日本人は、そういう権力者の独善が世の中の平和を害する元凶であるという認識を持ち、その独善を防ぐための対策を講じてきということです。

和の精神とは、自立の精神であり、自由と平等の精神であり、不正と独善を憎む清廉潔白な精神なのです。 

 

西洋思想

西洋思想は、キリスト教精神と弁証法的思考法で説明できます。

キリスト教精神

結論から言いますとキリスト教精神は、和の精神と全く同質です。

このことを、三つのポイントで説明致します。

「党派心の自覚」と「罪の自覚」

「主座を守る」と「神のみを主とする」

「独善を避ける」と「民主主義」の三つです。

 

「党派心の自覚」と「罪の自覚」

キリスト教では「人は皆生まれながらに原罪がある」と言っています。

原罪とは人間の中に二心(邪心、逆心)を抱かせる大もとになっている悪いもののことです。

これは聖徳太子が「人に皆たむら(党派心)あり」と言っているのと同じです。

ですからキリスト教も「人間には罪がある」という自覚が前提になっています。

 

「主座を守る」と「神のみを主とする」

キリスト教精神の真髄も一本軸です。

二心は罪、神(真実)は一つという明確な一本軸です。

キリスト教では蛇を悪魔サタンの象徴としています。

蛇の舌の先が二つに割れているのを、人間の二心を象徴するものとして忌み嫌ったのです。 

さらにイエスキリストは「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言っています。

人間の心を分けるものは神と富であると断定しています。

少し砕けた言い方をしますと「金で心(神=真実)を売ったら、あなたサタンですよ!」ということです。

心の潔白性に関しては、非常に厳格です。

 

「独善を避ける」と「民主主義」

歴史上クリスチャンたちほど、権力者の独善に苦しんできた人たちはいないと思われます。

ローマ帝国のもとで迫害され、中世暗黒時代には理不尽な教会権力に支配され、絶対王政の時代には権力者の圧政に苦しめられました。

西洋で、、、

イギリスの権利の章典、フランス人権宣言、アメリカ独立宣言を経て「法の支配」と「近代民主主義」が成立するに至ったその背景に、真のキリスト教徒たちの自立の精神があったことは間違いありません。

これは、言ってみれば権力者の独善に苦しんできたキリスト教徒たちによる独善対策です。

そして、今現在彼らが勝ち取った「法の支配」と「近代民主主義」が世界の主流になっているということは、、、

キリスト教精神が、自立の精神であり、自由と平等の精神であり、不正と独善を嫌う清廉潔白な精神であることの証です。 

 

弁証法的思考法

西洋思想に決定的な影響を与えているもう一つの流れが、弁証法ダブルスタンダード思想です。 

これはキリスト教精神や和の精神の対極にある思想です。

これも三つの観点で説明します。 

「自分が悪い」ではなく「自分が正しい」

「一つの軸」ではなく「A対Bの二本軸」

「独善防止」ではなく「権力万能主義」の三つです。

 

「自分が悪い」ではなく「自分が正しい」

弁証法とはAに対してBという対立するテーゼを立て一つの真実を導くという考え方です。

これは、一つの理論の精度を高めたり、物事の真偽を見抜くのに非常に有効な考え方です。

しかし、一方で大きな欠陥(危険性)が内包されています。

それは、「自分が悪い」という内省的観点(党派心=原罪の自覚)が欠落しやすいという点です。

そのため、財欲や権力欲(党派心)と弁証法が結びついたときに、不正を正当化し真実を抹殺してしまうということが起こり得るのです。

どういうことかと言うと、、、

キリスト教精神(あるいは和の精神)は、先ず神(仏)の前に自分は正しいのか正しくないのかというスタンスを取ります。

自分とは判断を仰ぐ立場。つまり「自分は間違える」という自覚が前提なのです。

それに対し弁証法は、自分がAやBが正しいのか間違いなのかを判断するスタンスなのです。

自分が判断する側なのです。

そこには当然「自分が正しい」という前提が存在しているのです。

これが、弁証法の危険性です。

もし仮に、神ではなく、富に使える人間が「自分が絶対」という傲慢な心情でAやBを上から「正しい、正しくない」と判断を下し始めたらどうなるかという話です。

そうやって出来たのが西洋的ダブルスタンダードです。

 

「一つの軸」ではなく「A対Bの二本軸」

AもBも極めれば一つに通じるという和の精神です。

多くの日本人は、どんなことでも極めれば一つの道(真理)に通じると信じています。

またそれが美徳であると理解しています。

これは、真のキリスト教精神も同じです。

しかし、、、

西洋的ダブルスタンダードは真逆です。

一つのものを必ず二つの軸(A対B)に分けて考えます。

「物事を先ず疑う」そして「二つに分断する」さらに「対立」させて考える。

これが、弁証法の典型的思考パターンです。

 

「独善防止」ではなく「権力万能主義」

西洋的ダブルスタンダードとは、、、

富に仕える人間が「自分が正しい」という前提に立って世の中をAとBに分けて支配する思想です。

唯物的(神ではなく)富中心の弁証法です。

そして、彼らの立ち位置は、AでもBでもありません。

上(神の立場)です。

神(真実)を売ってしまった人間に、始めから正義や真実などありません。

彼らの唯一の拠り所は、富(金と権力)です。

武力、財力、言論力の3Pです。

富を背景にして目指すのは、もちろん一つの頂上(最高の権力)です。

 

西洋的ダブルスタンダードは、権力万能のピラミッド型ワンワールド実現を目指す。

ですから、、、

彼らの掲げるタイトルは、すべてAとBの分断のためです。

AとBの対立を煽るのは、金儲けのためです。

金儲けはもちろん富(支配力)のためです。

 

そのやり方、、、

彼らは、自由を掲げて世界中の富を集めることに成功しました。

それが彼らの唱える資本主義です。

そこにA資本家とB労働者という二つの対立軸を作ると今度は、平等を掲げて独裁権力を手に入れました。

彼らの唱えた共産主義マルクス主義)です。 

世界をA資本主義とB共産主義の対立関係の中に組み込んで、彼らはピラミッドの頂上に立ち金と権力を最大化させてきました。

そして、今現在。

グローバルスタンダードというタイトルで、彼らのワンワールド構想が実現に向かっています。

世界が、グローバリズム反グローバリズムの対立関係になっているのもその流れです。