グローバルスタンダードの真実6

 西洋の根底にある力の原理

力とは武力、経済力、発言力です。

アメリカが今世界の覇権国である理由は、世界一の軍事力を持ち、ドルを世界基軸通貨に定め、自由民主主義という理念で世界を牽引する発言力を持っているからです。

力の原理が悪いというのではありません。

「真実」を勝ち取るための力であれば、強い方が良いに決まっています。

しかし、問題は権力が金とくっつきやすいことです。

これが、究極の問題点です。

それで、イエスキリストは権力者に向けて「神と富とに兼ね仕えることはできない」といいました。

日本では、聖徳太子が十七条憲法を定めました。

ここにはイエスキリスト言葉と同様に

権力者は真実(神仏)を守り不正(富)するなということが書かれています。

その後どうなったのかは、周知のごとくです。

エスキリストは十字架に殺され、聖徳太子は一族が抹殺されました。

 

正しい者が真実を主張するときに、

権力者はそれを放っておかないという構図がここに現れています。

真実と富=権力欲は対立構造になっているということです。

これが歴史の不幸の典型的構図です。

 

真実を抹殺する権力者の独善

このことを聖徳太子人にたむら(党派心)ありと表現しています。イエスキリストはサタン(邪な思い)と言いました。

要するに私利私欲と権力をくっつける働きです。(便宜上これを党派心と呼びます)

これこそが、諸悪の原因です。

そして、二心=ダブルスタンダードの原点です。

 

彼らの言葉は全て真実を欠いたダブルスタンダード

だから、彼らの宗教もダブルスタンダードです。

真実を欠いた宗教であるならば、

神という言葉が彼らにとってどれほど都合のいい言葉でしょうか?

神の名を使って富と権力を自由にできるのです。

 

和の精神も同じです。

真実を欠いた和の精神など本当はありえません。

しかし、彼らは和の精神から真実という軸を抜いてしてしまいました。

真実のない和の精神などただの迎合です。

彼らにとってこれほど都合のいい相手(今の日本)はありません。

 

万事がこれなのです。

彼らが主張する自由も平和も民主も平等もグローバルスタンダードも全てにおいて真実という中心軸が抜かれています。

歴史は一言でいうと真実と富のせめぎ合いでした。

そして、いつの時代も富が真実を抹殺してきました。

 

その理由は力の原理

真実を主張するものはいつも孤軍奮闘でした。

真実は金と権力に馴染みにくいのです。

一方、それを潰す側は、金と権力で簡単に勢力を作り上げます。

彼らは、力の原理をよく理解しそれを最大限に活用したのです。

武力で、金の力で、発言力で真実を抹殺してきたのです。

 

 

グローバルスタンダード4

グローバルスタンダードとはダブルスタンダード

今の自由民主主義も二通り

「真実よりも金」なのか?「金よりも真実」なのか?

これは、イエスキリストが「神と富とに兼ね仕えることはできない」といった言葉に対する二通りのアンサーです。

本当のクリスチャンであれば当然「金よりも真実」を選択し、そうでない者は「真実よりも金」を選択するということです。

 

歴史はずっとこのせめぎ合い

西洋諸国が、血で血を洗う富の奪い合いをしてきた事実を見れば、本当のクリスチャンよりもそうでない者のほうが多かったということなのでしょう。

少なくとも権力を持つ者が「真実よりも金」を選択してきたことは明白です。

しかし、そのような富の奪い合いという力の原理が支配する西洋社会において、自由と民主主義という理念が生まれてきたのは「金よりも真実」を求めた本当のクリスチャンがいたからに違いありません。

 

それで、今の世界は自由民主主義が二通りあるのです。

一つはもちろん「真実」としての自由民主主義であり、もう一つは「金の亡者」が掲げる自由民主主義です。

歴史はずっとこの「真実と金」のせめぎ合いでした。

 

そしていま世界は「真実」が勝つのか?「金の亡者」が勝つか?の瀬戸際にあります。

2000年前にイエスキリストが「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言ったのは、 ある面政治宗教の指導者に向けられた言葉でした。

彼らは、神の名を語りながら富に仕えていたからです。

そして、この言葉ゆえにイエスキリストは殺されました。

つまり、、、

このときは「真実」が破れ「金の亡者」が勝利したということです。

ですからそれ以降現在に至るまでずっと「金の亡者」が優勢のままに来ているのが現実なのです。

もし、、、

このまま世界が「金の亡者」の支配下に落ちたならば「真実」が全く通じない神も仏も良心もない、中◯のような完全な独裁社会が訪れることでしょう。

自由民主主義であるとは、「真実」をとるのか「金」をとるのかは私たちに選択の自由が委ねられるということであり、その大勢は民意の総計によって決まります。

2000年前のイエスキリストの問いは今私たち一人一人に向けられています。

運命の分岐点は、私たちの心の中にあります。

過去の悲劇を繰り返してはなりません。

 

グローバルスタンダードの真実4

グローバルスタンダードの真実4

 

西洋は力の原理、日本は和の精神

「真実よりも金」という西洋的ダブルスタンダードが定着していった背景には、支配するかされるかの力の原理が根底にあると考えられます。

相手を支配するのに「真実よりも金」が有効だからです。

 

日本はどちらかというと「金よりも真実」でした。

それは不和を嫌う和の精神根底にあるためと考えられます。

全体の和をはかるためには「金よりも真実」が有効だからです。

 

独善防止のための合議制

それで、、、

日本では古くから不和の原因についての深い考察と、

またその対策が講じられてきました。

それは、日本の神話を見ても分かります。

古事記の神様も合議制なのです。

神様でさえ大事なことは独断せずに話し合いで決めているのです。

これは、日本人が権力者の独断が独善に陥りやすいことを

大昔(神代の時)から理解していたということに他なりません。

 

権力者が独断するようになると、

どうしても「真実よりも金」に傾くようになります。

それは、人間の中にたむら(党派心)があるからです。

そうなると争いが起こり、民を苦しめることになります。

それで、日本では太古の昔から独善防止のための合議制が行われてきたのです。

 

日本の天皇は政治的権力を持たずに、先ず国の平和と国民の安寧を祈る存在であり続けました。

これは、

中国の皇帝、西洋のエンペラーや国王が絶対権力を行使してきたのとは正反対なのです。

 

また聖徳太子は、17条憲法に定めました。

これは権力者(役人)の独善対策のために書かれています。

権力の中心にある者が、権力者(自分たち)の独善を防ぐための憲法を定めたのです。

このようなことは西洋では聞いたことがありません。

日本人は、権力者自身が自分の中に「真実よりも金」に傾きやすいたむら(党派心)があることを自覚し警戒し、それを防ぐために憲法という条文で発布した世界に稀な国柄なのです。

 

17条憲法要旨

第1条に先ず『和をもって尊しとなす』としています。

これが大前提です。

そして、和に相反する概念として『たむら(党派心)』を指摘します。

『たむら(党派心)』があるから諍いが起こる。

だから、上も下も道理を立ててよく話し合うことが重要だということです。

 

第2条に三宝を敬うこと、第3条に詔に従うことを説きます。

これは、人間の心と社会秩序の中心にあるべき軸のことです。

軸がなくして和はありえません。

 

第4条から第16条までは役人の心得についてです。

要するにこれは、『不正をするな、清廉潔白であれ』ということです。

そのことを、具体的に様々な観点から戒めています。

 

そして第17条の締めくくりは『独断で決めるな』です。

権力の座にある者はとかく独善に陥りやすい、だから大事なことは必ず衆知にたずねよと言っています。

 

17条憲法には『和の精神の神髄』が簡潔かつ合理的に示されています。

そして、恐らくこの精神は今でも私たちの中に深く根付いています。

これは、西洋は価値観=力の原理とは全く異質なものです。

戦後日本では、日本の価値観は古臭いものとされ、西洋的価値観が合理的で素晴らしいものとして刷り込まれてきました。

しかし、よく見てみると日本の伝統的思想の方が、西洋的思想よりもはるかに合理的で平和的、民主的で誤魔化しが少ないことが分かります。

力の原理とは『たむら(党派心)』を助長する原理であって、真実、平和、民主の対立概念でしかないからです。

 

グローバルスタンダードの真実3

グローバルスタンダードの真実

 

真実よりも金

「真実よりも金」西洋的ダブルスタンダードを突き詰めていくと結論はこれだけです。

これは、イエスキリストが「神と富とに兼ね仕えることはできない」といったことに対するアンチテーゼです。

 

つまり、グローバルスタンダードとは反キリストであり、富を信奉する金の亡者たちがが作り出した(金という権力による)世界支配のスタンダードです。

 

ですから、彼らの主張するスタンダード例えば、自由、民主主義、人権主義、平等、平和、国際化という言葉には全て『彼らの富と権力を中心として』という見えない但し書きが付いています。

 

そもそも、子供に対して「お前には人権がある」「お前は自由だ」などと言う親がいるでしょうか?

このような言葉は本来自由も人権もない奴隷に対して言う言葉です。

自由も人権もある人間からすれば胡散臭い言葉以外の何物でもありません。 

 

しかし戦後日本では、西洋的ダブルスタンダードによる洗脳によって胡散臭い言葉が胡散臭いと感じられなくなってしまっています。 

これが問題です。

 

日本のスタンダード

日本では昔から民のこと「大御宝(おおみたから)」と言っていました。

民に対して「人権がある」「自由だ」などという人を見下した言葉を使ってはいないのです。

西洋的思想がすべて支配者目線であるのに対し、日本の視線は親の視線なのです。

親が子に対して抱く思い。

「お前は私のかけがえのない宝である」というのと同じです。

そこには最初から自由も人権も含まれているので、恩着せがましい言葉で強調する必要性がないのです。 

 

キリスト教指導者の堕落

中世暗黒時代にキリスト教指導者は政治権力と結託し富と権力を手中におさめました。

彼らは、神ではなく富に使えてしまいました。 

そうなると必然的に民衆は富と権力の奴隷です。

自由平等人権を求める声が民衆からあがったというのは、彼らが奴隷だったということの裏返しなのです。

 

真実なのか?金なのか ?

これが人間が直面する最終的選択なのでしょう。

人類の選択でもあり、同時に私個人の選択でもあります。

どういうことかというと、、、

キリスト教指導者の選択と同じ事が私たちにも問われるいうことです。

彼らが最初から悪人だったか?

想像してみれば分かります。

おそらくそうではありません。ただ選択を間違えたのです。

国王をしのぐほどの権力と莫大な財を手にした時に、本人の思いに反して心の真実を捨ててしまったのです。

意に反して富と権力の虜になってしまったということなのでしょう。

宗教、政治、経済のトップが選択を間違えたのです。

これが今の世界=西洋的ダブルスタンダードに繋がっています。

そして、今私たちの世界は、まだこの延長線上にあるのです。

自由主義共産主義かという問題は上辺の問題に過ぎません。

本質は真実なのか?金なのか ?の選択です。

 

グローバルスタンダードの真実2

グローバルスタンダードとは?

今の世界は、秩序の破壊という狂気に取りつかれているようにしか見えません。

なぜでしょうか?

その原因の一端は、西洋的ダブルスタンダードにあります。

その根源は、神の権威を笠に着て権力の最大化をしてきたキリスト教的偽善です。

 

しかし、、、

偽善などというものはいつまでも隠し通せるものではありません。

宗教改革啓蒙思想が起こり民衆の理性が高まるにつれ彼らの偽善は暴かれてしまいます。

それで彼らは理性だ、自由だ、民主だのと建前を変えてきたのです。

もちろん民衆を欺くためです。

しかし、これにも限界があります。

純粋に神を信じる良心的な人々が真実を知ったならば、不正な権力を許すはずがないからです。

 

そこで、、、

彼らは徹底的に神を否定した共産主義思想を作り出しました。

人間の中にある信仰心を取り除き、人間の良心と理性を壊すためです。

彼らの中に真実はひとつしかありません。

『権力』です。

これが西洋的ダブルスタンダードの根底にあるのです。

 

彼らは、、、

権力のために神の名を語ることも、神を亡きものにすることも何とも思いません。

もともとが神に取って代わろうとする者たちです。

当然人間の良心、理性、命を奪うことに何の呵責もありません。

 

グローバルスタンダードとは

つまり、権力の亡者が作り上げた世界基準のことです。

 

秩序の破壊という狂気

彼らが壊そうとしているのは真実を中心とした秩序です。

真実の信仰心に基づいたもの。

真実の自由民主主義。

本当の理性、嘘偽りのない良心に基づいた本物の秩序です。

 

今の世の中は、建前上であっても民主主義です。

正しい者が発言力を強めれば、自分たちのやって来た不正が暴かれてしまいます。

そうなると彼らの目的を果たすことができません。

だから、どんなことをしても阻止しようとするのです。

その狂気が今世界に充満しているのです。

 

日本という国

日本人は本来正直で清廉潔白な民族でありました。

二心を嫌う民族なのです。

豊臣秀吉徳川家康も宣教師たちの西洋的ダブルスタンダードを見抜いていました。

高杉晋作大久保利通もその他の要人も西洋的ダブルスタンダードに騙されることはありませんでした。

清廉潔白な精神を保つ日本人からすれば、人の真意を見抜くのは難しいことではなかったということなのでしょう。

 

日本は、少なくとも戦前までは西洋的ダブルスタンダードに対抗できる唯一の国であったことに違いはないのです。

 

最後の戦いは、私たちの心の選択

真実OR偽善の戦いです。

 

戦後日本は、西洋的ダブルスタンダードに毒されて清廉潔白な日本精神は見るも無残に廃れてしまいました。

西洋的合理主義、マルクス主義グローバリズム等々、西洋思想は全部良いものとして鵜呑みにしています。

 

うわべのきれいごとの裏に隠されている魂胆が、全く分からなくなってしまいました。

彼らの洗脳計画は成功しています。

 

しかし、、、

偽善が勝利して、真実が滅ぶという道理はありません。

神が生きて働かれているならばです。

エスキリストは神と富の二つに使えることはできないと言われました。

秩序の破壊という狂気に取りつかれている世界を救うのは、

ある意味私達の心の選択かかっています。

西洋的ダブルスタンダードの呪縛から解かれなければなりません。

 

 

グローバルスタンダードの真実

グローバルスタンダードの真実

 

日本と世界の関係

大まかに保守的な日本人ならば「日本は世界の中で独自の伝統文化を持つ国である」と考えるでしょう。

またリベラルならば「日本は世界の中の一つの国に過ぎない」と位置付けるかもしれません。

ではその世界とは何でしょうか?

「我々は自由と民主主義という価値観を共有する国だ」

このような言葉を私たちはよく耳にします。

自由民主主義こそが世界のグローバルスタンダードであると考える人も多いかも知れません。

しかし、グローバルスタンダードの本質は「ひとつの理念を中心として国境をなくすワンワールド思想」にあります。

 

何が言いたいのかというと、自由民主主義とワンワールド思想はそもそも親和性がないということです。

つまり、今私たちが思っている世界とは「西洋的ダブルスタンダードによって人為的に作られた世界」のことなのです。

 

西洋思想における排他性と独善性 

ダブルスタンダードの根源はキリスト教的独善にあります。

キリスト教のスタンダードは創造主の唯一絶対性と神の愛の普遍性です。

つまり、彼らにとって自由も民主も絶対唯一である神のもとにあることが前提になっています。

ということは、神を信じない者はその範疇にないという理屈も成り立つのです。

一つの絶対的価値観が中心にある西洋思想は、常にこのようなダブルスタンダードが内在しています。

その根源となっているのがキリスト教的独善性と排他性なのです。

 

彼らがワンワールドを目指す理由

キリスト教の神が絶対唯一ですから、神の作った世界が一つでなかったら辻褄が合いません。

それゆえに必然的に「国境をなくすというワンワールド思想」に繋がります。

しかし、もしこれを人為的にやろうと思ったらばどうなるでしょうか?

無理が生じることは火を見るよりも明らかです。 

そもそも人間には多様性があるからです。

風土や習慣や伝統も民族性も多様なのです。

 

しかし、西洋的思想の権力者はそれを人為的にやってきました。

その典型がキリスト教徒の布教と侵略です。

 

神の名を語り、略奪、殺人、戦争、人身売買、植民地支配、原住民の大虐殺など非人道的行為の数々行いました。

 

神の名のもとに侵略と支配を正当化してきたのです。

これは彼らの完全なダブルスタンダードの現れです。

 

神によるワンワールドがいつしか人間の支配によるワンワールドにすり替えられた

歴史を見るとキリストの教えを中心とした教会指導者あるいは国王も、権力の奪い合いに終始しています。

信仰の真髄である神への謙遜や清廉潔白さなど見る影もありません。

王権神授説などはその最たるものです。

いつの間にか神の名が、自分の権力の正当化のために使われるようになってしまったのです。

そして恐らくこのダブルスタンダード人間の支配によるワンワールド理論の基本形になっています。


人間の理性もダブルスタンダード

教会指導者や国王の傲慢な権力行使に嫌気がさした民衆は、人間一人一人が神様から与えられている自由平等人権というものを主張するようになりました。

啓蒙思想です。

それがフランス人権宣言によって成文化されます。

 

しかし、理性で勝ち取ったはずの自由と平等の人権もダブルスタンダードの型に嵌められ人間の支配によるワンワールド理論になってゆきます。

自由を掲げる者たちは人権を蹂躙し、利益を搾取することに奔走しました。

彼らにとって自由主義とは、金の力で世界を支配することだったのです。

 

そこに今度は平等を掲げたマルクス主義が出現しました。

彼らは、平等という言葉を掲げた独裁主義です。

彼らは、理性で勝ち取った言葉を自分を正当化するタイトルに使ったのです。

 

全てはダブルスタンダードです。

要するに権力さえ握れれば何でもありということです。

 

世界とは何でしょうか?

資本主義、自由民主主義、共産主義、、、◯◯主義等々

世界は表面だけ眺めていても分かりません。

全ては建前だからです。

彼らが目指すものは、自由でも民主でも平和でもありません。

一部の権力者が支配するワンワールド構想です。

キリスト教のスタンダードである神の絶対唯一性、神中心のワンワールド

その価値観を変質させた神に取って代わろうとする者たちによって人為的に作られているのが今の世界なのです。

 

 

グローバリスト

唯物史観ワンワールドというキーワードから分かること

歴史観は縦軸、ワンワールドは横軸です。

これはキリスト教における神様の創造史観と神様中心のワンワールドからきています。

西洋人の価値観の基本形はこれです。

 

ですから西洋を起点として二分化された自由主義陣営と共産主義陣営もこの基本形になっています。

 

自由主義陣営は神のもとに人間は自由人権を保障されているとし、神中心の自由で民主的な世界を目指します。

共産主義陣営は唯物史観をもとに人間は科学的必然性によって物質的平等を実現すると言い、人間の理性で平等な分配をなすユートピアを目指します。

 

自由主義共産主義が世界を二分する思想になりえたのは、一つの歴史観(縦軸)と一つの世界観(横軸)を示したからです。

 

根底が支配・被支配の思想

人間が世界支配を目論むなどと言うと、多くの日本人にとって到底受け入れられる話ではありません。

日本には西洋のように一つの歴史観(縦軸)と一つの世界観(横軸)に凝り固まる習慣も性質もないからです。

和の精神を是とする日本人にとって世界支配など狂人の戯言以外何者でもありません。

 

しかし一つの歴史観と一つの世界観に基づいた人間が、世界を一つにまとめようとするのはあまりにも当然なことです。

 

自由主義陣営も共産主義陣営もよく見ると、その動機と目的は同一です。

彼らは世界を一つにまとめようとする人達(グローバリスト)です。

もちろん神のもとにではありません。

自分たちのもとにです。

 

グローバリストは自由を語り大衆から富や権力を奪うことに成功してきました。

平等を語り大衆から自由も平等も人権も搾取してきたのです。

民主を語り、大衆支配を実現してきたのです。

 

彼らの理想型は究極の反キリストです。

神に代わった一部の特権階級が人類を支配するということです。

彼らの言う自由平等民主とは、囲いの中にある家畜は自由で平等で民主だというのと変わりがありません。

彼らの中にある一つの歴史観と一つの世界観とは、支配者による歴史観であり支配者による世界観です。

そして、そのノウハウは長年にわたり蓄積されて研究し尽くされているのです。