「自分を見失う」とは
不幸の原因は錯覚にある。
不幸になりたくなければこの錯覚を無くせばよい。
そこで、今回のテーマは「自分を見失うこと」についてである。
錯覚するということは「自分を見失うこと」である。
「自分を見失う」とは「真の心」と「偽りの心」が入れ替わった状態だ。
「真の心」と「偽りの心」
「真の心」と「偽りの心」について例を挙げてみると。
人の不幸を見て哀れに思う(◯)喜ばしく思う(✕)
人の幸福を、喜ばしく思う(◯)妬ましいと思う(✕)
人の不正を見て、正そうと思う(◯)目をつぶる(✕)
自分の間違いに気付いた時に、正そうと思う(◯)隠蔽しようとする(✕)
自分の中に汚い心を恥ずかしいと思う(◯)人間に汚い心は付き物だと思う(✕)
(◯)が「真の心」(✕)が「偽りの心」である。
おそらく小学生でも分かる話だ。
しかし、人の幸福を妬み、人の不幸を喜ぶ人は多い。
人の不正を見て見ぬふりをしたり、自分が間違いを犯しても、それを正さないばかりか隠蔽する人も多い。
ましてや、それが人間の本性であるかのように開き直る者もいる。
小学生でも分かる話が、大人が分からない。
理由は、自分の心と向き合っていないからだ。
自分の心と向き合っていないから「真の心」も「偽りの心」も曖昧にされている。曖昧だから自分を見失う。
それで不幸が絶えない。
「偽りの心」は「 錯覚」
「偽りの心」は何かというと「 錯覚」である。
思い込み、囚われ、妄想、妄念、煩悩、貪欲、因縁、、、、色々な言い方ができるが、要するに「 錯覚」なのだ。実体はない。
この「偽りの心」こそが悪の本質であり、これは、自分の心が作り出している「錯覚」なのだ。