錯覚(思い違い)
不幸とは、人間の絶対的価値の侵害が侵害されること。
人間には絶対不可侵の領域がある。
それは、人間の絶対的価値に関する部分だ。
絶対的価値とは「それに、比較、対立するものはない。それに、取って代わるものもない。それは、何ものにも拘束、制限されない。あるからある…。」という性質の価値である。
つまり、あなた自身のことでもあり、またすべての人、一人一人でもある。
そして、あなたの生命、人権、自由、良心、理性のことでもある。
これは、絶対侵害されてはならない人間の神聖なる領域である。
一方で、人間の持つ価値観は相対的だ。
十人十色と言われるように、人は好みも考え方も皆違う。
しかし、この価値観が相対的であるがゆえに、しばしば問題を引き起こす。
たとえばAという人間が持つ個人的な価値観が、Bという人間の絶対的価値を侵害するケースが出てくるのだ。
お金を得るために人の命を傷つける。
好き嫌いという自分の感情問題で人権を蹂躙する。
権力を振りかざし人の自由を奪う。
自分の立場や利権を守るために不正を行う。(良心や理性を傷つける)
などである…。
これらを見ると分かるように個人的な価値観(お金、好き嫌い、権力志向、利権、保身)が、絶対不可侵の領域(生命、人権、自由、良心、理性)を侵害してしまっている。
これが、不幸の仕組みの一つのパターンだ。
個人的価値観といえば聞こえはいいが、それが人間の絶対的な価値観を侵害する場合、不正であり、虐待であり、犯罪である。
人が不幸になるだけにとどまらず、法的に罰せられることもある。
では、どうしてこのようなことが起こるのか?
その原因が、思い込み(錯覚)だ。
個人的な価値観(お金、好き嫌い、権力志向、利権、保身)が絶対になってしまっているのだ。
避けられない不幸と避けられる不幸。
不幸には二通りがあるという話をしたい。
これは、ある人の話である。
Aくんは、小学校の3年生の時に母親を亡くした。
大きな家に住む友達だった。
彼は、こう言った「母が生きていてくれたなら、家もお金も何もいらない…。」と。
彼の言葉は真実であろう。
彼にとって、母の命に取って代わるものなど何もないからだ。
母が亡くした友人は、確かに不幸なことではある。
しかし、人間である限り誰でも必ず一度は死ぬ。
そういう意味では避けようがない死というのはある。
Aくんの母親はその時期が不幸にも、人より早く巡ってきてしまった。
これは、人間の能力の外にある避けようがない不幸だ。
Aくんは、幼くして母を亡くし本当に辛い思いをした。
しかし、彼はそのことを通じて命の尊さを知り、人に対して優しくするようになった。
私の知る限りでは彼はその後、家族を大事にする父親になった。
命を大切にするするあまりなのか、彼はゴキブリ一匹殺すこともできない(余談)。
そして、その優しさは子供にも伝わっている。
これは、Aくんは、避けられない不幸(母の死)には遭遇したが、避けられる不幸は避けてきたということだろう。
そして、Aくんが真実に生きたということは、Aくんの母親の命が真実なものだったということにもなる。
そうなるとAくんの母親は、もはや不幸だとは言えなくなる。地上で生きた期間が人より少し短かったが輝かしい人生だったという真実に帰結する。
つまり重要なのは、避けられる不幸を避けることだ。
そうすることで、避けられなかった不幸も不幸でなくなる。
避けられる不幸とは、人間の判断ミスなど人為的に引き起こされるものだ。
それは、錯覚(思い違い)によって起こる。
ということは、思い違いをしなければよい。
私たちに、個人的な価値観(お金、好き嫌い、権力志向、利権、保身)を実現することが幸せだ…。と思わせるものがある。
しかし、それがすべてであると錯覚(思い違い)しないことだ。
間違った思いに振り回されると、必ず不幸になる。
本当の不幸とは、命を穢すことだ。
個人的な価値観を追求するのはいい。
しかし、それは人間の絶対的価値を侵害しない範囲での話だ。
そうすれば不幸にはならない。