人の不幸は蜜の味

不幸の原因は錯覚にある。

不幸になりたくなければこの錯覚を無くせばよい。

そこで、今回のテーマは「人の不幸は蜜の味」である。

 

昔から「人の不幸は蜜の味」というように、人間の中に「人の不幸を喜ぶ感情」がある。

ややもすると、そんなこと当たり前じゃないの、、と言ってスルーしてしまわれそうなテーマだ。

 

しかし、このような感情こそが人間社会の諸悪の根源になっている。

なぜならば、これは「錯覚」だからである。

そして、その「錯覚」は正されることなく放置される傾向にある。

さらには放置は隠蔽に繋がっている。

これが、人間社会の諸悪、たとえばイジメ問題一つにしても改善できない原因になっている。

「錯覚」「放置」「隠蔽」と繋がる不幸の仕組みについて考察してみたい。

 

「錯覚」

人の不幸を聞いて「え~気の毒に~」といいながらも、ふっと湧いてくる喜びに似た感情がある。すると今度は別の友人に「ね~知ってる~」とか言いながらその不幸話を伝達している、、、半ば喜びながらだ、、、。

こういうのを俗に「人の不幸は蜜の味」と言っている。

 

しかし、この思いは一体何だろうか?

良く考えてみる必要がある。

考えれば誰でも分かる簡単な問題だ。

そもそも他人の幸不幸と、自分の幸不幸は何の関係もない。

なのに「人の不幸を喜ぶ」のは、他人の不幸ゆえに、相対的に自分が優位に立ったような気がしているだけのことで、単に気のせい(錯覚)でしかない。

 

どうでもいい、小さいこと、、、と思われるかも知れない。

しかし、この錯覚が人間社会に様々な不幸を起こす。

例えば、イジメがそうだ。

イジメが起こるのは、その子が困ったり、苦しんだりするのを見て喜ぶ気持ちがあるからだ。

もちろん、その子が不幸になったからと言って、自分が幸せになる訳ではない。

「錯覚」に振り回されているのである。

 

「放置」

本当だったら、そういう錯覚はクリアにしなければならない。

しかし、「放置」される。

「錯覚」に気付かないのか、気付いたとしてもクリアにしたくないのだろう。

いずれにしても、曖昧にしておきたいという間違った心理が働いている。

 

「隠蔽」

しかし、そのような感情の錯覚を放置しておくと間違いが起こる。

間違いが起こってからでも「錯覚」に気付きクリアにすれば良いのだが、ほとんどの場合「隠蔽」する。

自分の中の汚い部分に光を当てるがイヤなのだろう。

 

それで、人間の中の「錯覚」は残されたままだ。

従って不幸は続く、、、。

 

「人の不幸は蜜の味」と言って人の不幸を喜ぶ人間が多いのは、錯覚が放置され隠蔽されてきた結果なのだと思う。

 

「錯覚」「放置」「隠蔽」と繋がる不幸の仕組み、これは人間社会の至る所にある。