人の為に生きることの偽善性
不幸の原因は錯覚にある。
不幸になりたくなければこの錯覚を無くせばよい。
そこで、今回のテーマは偽善である。
人の為に生きることの偽善性
「人という漢字を見てみなさい、支え合って出来ているだろう。 人の為に生きるのが人間なんだよ。」
武田鉄矢ではない、、、子供の頃、叔父がよく話していた言葉だ。叔父はちょっとした思想家タイプの人間で、人の面倒見もよく、地域社会に奉仕したり、会社では率先して労働組合の役員をしたりしていた。(余談)
なるほど、確かに人はお互いの為に生きていくものなのだろう。実際に、今我々が住むこの世の中が、人々の支えあいなくして成り立つとは思えない。人の為に奉仕するボランティア活動の人などを見ても素直にご立派なことだと思う。彼らのような人たちは世の中に欠かせないものだと思う。
しかし、この言葉「為に生きる」には盲点がある。
何かが抜け落ちているのだ。
その何かがお分かりだろうか?
偽りという字は、人の為にと書く。偽善者とは、人の為に善いことをする者と書く。
もしこの解釈が間違っていなければ、ボランティアとか、支え合いとかは、、、偽善ということになってしまう。
「為に生きる」の盲点とは、、、動機である。
人の為にするにしても「どういう動機で」というその人の本音の部分が抜け落ちているのだ。
たとえば「高齢者のために!子供のために!社会的弱者のために!」と連呼している政治家がいるとする。
うわべを見れば、彼は弱者の為に善いことをしてくれるんだなぁと思う。
しかし、本音は分からない。もしかしたら「自分の当選の為」に弱者の票を集めたいだけなのかも知れない。
うわべだけでは、真意が分からないということだ。
つまり、「為に生きる」は、錯覚を与える言葉である。
言葉に曖昧さがある(動機が隠されている)ために、そこに悪いものが入り込む余地がある。
善悪は動機次第ということである。