弁証法と和の精神Ⅶ

党派心とは何か?

一言でいうと不幸の原因です。

 

和の精神から見ると、その対極にあるもの、、、すなわち分裂や諍いの原因となる情念が党派心(たむら)です。

聖徳太子は17条憲法の第1条で「人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし」 と言っています。

今でも不良学生たちが、学生の本分を忘れて惰性的に集まっているのを、たむろする、、、と言いますね。

聖徳太子は、人には皆このような党派心(たむら)があるんだと、、、そして、すべての諍いの原因は、この党派心(たむら)にあるんだと言っているわけです。

 

すこし解説しますと、、、

 党派心とは、偏った考えや思想で仲間を作ろうとする思いのことです。

そうするとどうなるでしょうか、、、?

当然、、、考えが似た者同士は仲良くしますが、合わない人を疎んじるようになります。

それが、単に仲良しグループでとどまるなら良いのですが、そのグループに思想や利権や数のパワーなどが加わるとだんだん横暴になり、必ず意見の合わない者たちと対立し、攻撃的になります。

 つまり、我々の周辺にある些細な諍いから、世界戦争に至るまで、、、すべての争いの原因は、人間の党派心(たむら)にあるのです。

 

聖徳太子は、この事をよく分かっているからこそ、十七条憲法の第一条に和の精神が最もいと入れたのでしょう。

 

しかし、、、凡人にこのことは、なかなか分かりません。

凡人にとって、気の合う仲間とたむろすることは無上の喜びですらあるのです。

仲間と仲良くすることは、当たり前のことであり、、それが諍いの原因だなんて夢にも思わないのです。

そもそも凡人には、自分の思いが偏っているという自覚などないからです。

つまり、凡人がたむろするのは、ほとんどの場合、悪意もなければ、自覚もないのでどうすることもできません。

 

当然、、、聖徳太子は、そのことを十分に理解していたので「上に立つ者が、和の精神を持って臨みなさい、、、」と、、、。

上に立つ者が、公正な精神を失わなければ、たむろするのが大好きな凡人でも道理は通じるものだ、、、と言ったのです。

 私たち日本の歴史を振り返ると、平和な時代が長く続きました。世界に誇る和の文化が根づいています。

おそらく和の精神を持つ者が、そうでない者よりも多かったことの証拠でしょう。

 

 

では、、、西洋は?

エスキリストは、人間の中にある党派心のことは当然見抜いていました。

その清廉潔白を旨とするキリスト教精神は広く伝わっていました。

しかし、その歴史は、あまりにも酷い、対立、闘争、略奪、虐殺、、、尽きることのない覇権争い、、、で綴られています。

恐らく、上に立つ者に党派心を持つ者が多かったのでしょう。

実際のところ、キリスト教精神の真逆の歴史が綴られています。


そこで、、、定義づけをしてみました。

 

民衆の党派心を鎮めることができるのが聖人君主

民衆の党派心を操るのが極悪人。

 

党派心を制御するのが善人。 

党派心のままに行動するのが小悪人。

 

悪意はないが党派心を抑えきれないのが凡人。

 

続く