弁証法と和の精神Ⅶ

では、西洋に和の精神は存在しないのでしょうか?

そんなことはありません。

日本に和の精神があるとするならば、西洋にはキリスト教精神があります。 

 

イエス・キリストは「まず神を愛し、隣り人を愛せよ」と説いています。

これは、西郷隆盛が胸に座右の銘にしていた「敬天愛人」の思想と変わるものではありません。

そしてイエス・キリストは「自分に咎があるのに人を裁くな」と、、、

さらには「汝の敵までも愛せよ」言いました。

これは親鸞聖人の言った「善人なおもて往生を遂ぐ。 いわんや悪人をや」の思想と同質です。

 

何が同質かというと、表面的な対立概念で物事を見ていないという点です。

善悪や敵味方を、私Aだから善、あなた B だから悪で敵、、、という観点ではなく、、、本当の善悪、本当の敵味方は自分の中にある本質的に、和合的に捉えているのです。


それで、イエス・キリストは「神が完全であるように、あなたたちも完全であれ」と言っています。

完全な心(清廉潔白な心)が中心になければ、右に左に揺れ動く自分の中の敵(党派心)を見抜くことも出来ないからです。

このような考え方は、聖徳太子をはじめ、、私たち日本の先人たちが実践してきた和の精神そのものだと言えないでしょうか?

 

ということは、和の精神は日本人だけのものではないということです。

言い方は違っていても、西洋人の中にもあるのです。

 

でもなぜ、、、?

キリスト教精神を根底に持つ西洋人が、世界中の他民族を侵略し虐殺強奪行為を繰り返してきたのでしょうか?

 

推測の域を離れませんが、恐らく、、、弁証法的詭弁から生じたダブルスタンダードの定着のせい、、、です。

 

キリスト教的精神と勝者絶対の弱肉強食思想のダブルスタンダードです。

平和をつくり出すには、神のような完全な心(清廉潔白な心)が必要だ。

しかし、それを理解できない者は、力で叩き潰して支配するべきだ。

という具合に、、、です。

 

もちろん、こんな理論は単なる詭弁に過ぎません。

しかし、実際に西洋の歴史に一貫してきているのはこのダブルスタンダードです。

西洋の歴史を見れば見るほど、力の理論、、、戦争や革命を正当化するための空虚な弁証法的理論が、イエスキリストが説いた愛と平和の精神を凌駕してきたようにしか見えないのです。