保守とリベラル(不幸の構図が出来てしまう理由)

保守とリベラル(以前は保守に対して革新と言っていましたが、今はリベラルと言っています。)の根底にある思いを一言で言うと、、、

保守は、神仏や先祖、伝統や大自然など大いなるものに対する謙遜の念。

リベラルは、神仏にも取って代わり、大自然、人類までも支配しようとする傲慢な念。ということになるのかと思います。

 

リベラルは、人間の理性が万能であるがごとく主張しますが、その隠された本質は自己中心的な支配主義です。

 

だから、宗教を弾圧し、歴史伝統を破壊し、自然を壊し、人権人命を奪うのも平気です。

彼らの言う平和主義、民主主義、環境保護主義などは、彼らの本心を隠す単なる飾り物に過ぎません。

神仏よりも人類よりも大自然よりも自分が上にあるのですから、噓偽りは常套手段でしかありません。何をしても良心の呵責もないのです。

人間の中にあるこのような傲慢な思いが、もっともらしい主義主張をなし、その実、支配する側される側という不幸の構図を作っているのです。

 

でも何故?そのような凶悪な思想が、世の中に通用し、、、そればかりか今現在にも蔓延し、猛威をふるい続けることができるのでしょうか?

実は、、、神仏までも見下す傲慢な心が、、、まさに私たちの中にあるからです。

だから、彼らの魂胆を見抜くことができない、、、それどころか同調してしまうのです。