弁証法と和の精神Ⅲ
不幸の構図は支配・被支配にあり、そして、その構図は私たちの中にある「ごうまん」・「うらみ」から作られている、、、。
これが、私の主張するところです。
人間が党派心をもって対立する時、そこには必ず争いが生じ、血が流れ命が失われ遺恨が残る、、、。
そして勝者には「ごうまん」、敗者には「うらみ」という毒が残ります。
「ごうまん」は横暴に、「うらみ」は復讐行為に至る、、、
これが、血を血で洗う争いを繰り返してきた人類歴史の仕組みです。
不幸の仕組みと言っても良いでしょう。
地獄の無限ループみたいなものです。
聖徳太子は、この事を(恐らく)良く理解されていました。
それゆえに17条憲法の第1条に「争うな!」と、、、「党派心こそ争いの元だ!」と明記されたのでしょう。
そしてまた日本人の多くも、恐らく、、、(理屈というよりも皮膚感覚で)そのことを理解していたのでしょう。
だから、A に対して B という対立軸を立てない。
善悪二元論的な考えをしない、、、のです。
狼藉を働いたスサノオノ神として祀る、、、敗者である源義経にむしろ同情する、、、 謀反を働いた明智光秀を一方的に悪者にしたりしない、、、というようなことを当たり前のこととしてやって来ました。
善人の中にも悪が、悪人の中にも善があり、勝者の中にも非があり、また敗者の中にも理があるということを理解していたのでしょう。
つまり、日本人は表面的な善人と悪人、結果としての勝者と敗者という価値観では世の中が収まらないことを知っていた、、、ということです。
それで、、、
弱きを助け強きをくじく(強者の前にこびない、弱者だからといって無視しない、見た目ではなく正義を通す)
武士は食わねど高楊枝(目先の利益に心を奪われない)
、、、というような清廉潔白な武士道的な精神が生まれたのでしょう。
実は、これは、非常に重要なことであると思うのです。
自分の中にある悪い思いと世の中に起こる悪いことを同一軸で捉える、、、ということです。
今でも、お相撲さんの姿などを見ているとよく分かります、、、勝っても驕ることなく負けても恨むことをしません。
自分の中にある弱い心(「ごうまん」「うらみ」に引きずってゆこうとする悪いもの)と、それに打ち勝つ(悪いものに惑わされない平常心)ことこそが本当の勝負であることを自覚しているからなのでしょう。
「和を以て貴しと為す」、、、その本質は、悪いものが混入していない正しい心こそが和である、、、ということことに他なりません。
「上和ぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、すなわち事理おのずから通ず」、、、
これも、上の者が党派心のない清廉潔白な心で臨め、、、ということであって、上の者が上手く皆の意見を調整して、、、というような形を言っているのではありません。
うそや方便で形だけ上手くまとめても、、、それは本当の和ではないのです。
心の和が、道理にかなって形として現れたのが本当の和です。
心の内外が一本軸なのです。
(続く)