弁証法と和の精神
左翼とか右翼という考え方は、日本に適しているのでしょうか、、、?
左翼・右翼の語源はフランス革命期の議会にあります。
自分たちの地位、権利を保守したい者(貴族)たちが議会の右側に座し、自由、平等、民主という理念の下に既成の権力構造を革新したい者(平民)たちが左側に座したことに由来します。
日本もこれにならって保守勢力を右翼、革新勢力を左翼と呼んできました。
そして、このような右翼・左翼による二大政党による政権運営が理想的なものとして受け入れられ、疑う者もいません。
しかし、このような Aという観念に対してBという対抗軸を立てるという西洋的考え方が、果たして日本人に適しているのか?
いえ、それ以前にその様な考え方で本当に良いのか、、、?を考え直す時に来ているように思われます。
そこで、、、
西洋の思考方式の根底にある弁証法と、日本の思考方式の根底にある和の精神をテーマにして考えてみました。
弁証法(西洋の思考方式)
西洋はギリシャローマ時代文明の流れを引き継いで現代にいたります。
その文明の根底にある思想が弁証法です。
その思想は古代ギリシアに起源を見ることができます。
ソクラテスの対話法で有名ですね。
例えばソクラテスは、 A の主張に対して「どうして?」と質問します。
するとAは、しどろもどろになってしまいます。
A の主張に曖昧さや矛盾が含まれていたからです。
そのようにしてソクラテスは、弁論者に対し次々と質問を投げかけ弁論者の虚構を見破っていきました。
このように 弁論者A の主張(テーゼ)に相反する主張B(ソクラテスの質問:アンチテーゼ)を立てることにより A の主張に内在していた曖昧さや矛盾が浮き彫りにされます。
そして、A の主張(テーゼ)が相反する主張B(アンチテーゼ)を克服するときに、より精度の高いCと言う主張 (ジンテーゼ)にレベルアップします。
これが「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」「合(ジンテーゼ)」という弁証法的思考の基本です。
この考え方は確かに理にかなっています。
ソクラテスのように真実を求める者にとっては、テーゼに内包された矛盾や曖昧さを取り除く非常に有効なやり方であることは間違いありません。
そして今現在、このような弁証法的な思考方法が全世界を席巻するにいたってる、、、のです。
しかし、、、
このような思考方法がベストなのでしょうか?
この方式は、確かに思考の精度を高めるには有効ではあります。
しかし、悪意が介入した時にどう働くのか?という部分は非常に曖昧にされています。
例えば、「正(テーゼ)」に対する「反(アンチテーゼ)」が、単に相手の主張を打ちのめすという悪意によってなされたら、、、?
対立、諍い、戦争が生じるのです。
そうです。弁証法の致命的な欠点はここにあります。
勝者万能になりやすいということです。
相手を打ち負かしたものが正義となり、仮に敗者の中に真実や善意があったとしても粉々に打ち砕かれるだけです。
アメリカなどではディベートと言って議論で相手を打ち負かす訓練をしてるといいます。
これには大きな危険が潜んでいると言えるでしょう。
行き過ぎた裁判至上主義は、真実解明よりは、むしろいかに相手打ち負かすかと言う勝敗至上主義になっています。
勝利すれば正義も賠償金も勝ち取ることができるということです。
そこには善意とか真実は大きな意味を持ちえません。
アメリカの大統領選挙における相手の罵り合いや、フェイクニュースの応酬などを見ると弁証法的思想の悪い面ばかりが出ているように思われます。
彼らにとっては、革命という名の殺戮と平等という名の独裁支配を正当化する武器としての理論でしかありません。
ソクラテスは真実を究明するために弁証法的な技法を使いましたが、今や相手を打ち負かすためには何でもあり、、、の仁義なき戦いの道具と化してしまった感があります。
このように、良くも悪くも西洋における根本的なものの考え方は弁証法的なのです。
(続く)